第5章「ふっといチュロス」

 雨が降ってきた。お風呂上がりの額に化粧水と混じった汗が、触らなくてもわかる、最悪な粘着を生み出している。雨粒が大きくて”ひょう”かと思った。いや、これは割と本当で、こんな時期にひょう?と思うかもしれないが、つい一週間前の今日は、セーターを着ていたのだ。この七月の中旬に。セーターを着ながら蝉の鳴き声を聞く日が来るなんて、その瞬間に身の回りの景色が全て偽物に見えたが、目の前で元気よく電磁波を発するパソコンは相変わらず大学の課題を提示してくるので、どうかひとつくらい虚像であれと願った。地球がかなり悲鳴を上げている。本当にごめん、と思いながら、何ができるかと思って、今、ひとまず冷房はつけないと決心した。雨音からひょうを連想したこの数秒の間で、上記複数行を想像して行動に移したのだから、つくづく私は行動派で、しみじみ「考えること」と縁を切っても切れない関係にあるのだと思う。雨音が止んだ。結局ひょうではなかった。網戸を開けて腕を伸ばして、手のひらで確かめたから本当である。  

 話したいことはたくさんある。しかしいざ書いてみようとすると、チュロスかなんかの生地を流し入れた透明のビニール袋を勢いよく絞りすぎて、その端にせっかく小さく作った穴がぶち破れて、制御不能になったチュロスがふっとい一本となって出てくる、みたいな現象が浮かぶのだ。それはなんとしても避けたいと思って、細心の注意は払おうと、いや、払う努力はしようとやっと話し始めるのである。最終的に「制御不能になったふっとい一本のチュロス」になっていたら本当に申し訳ない。  

 早速だが、苦しい努力は必要だろうか。ここで言う「苦しい努力」は「苦」であるという事実を伴った努力のことである。何かを成し遂げるとき、何かに適応してゆくとき、努力は必要不可欠である。しかしながら、人生の中心にそういった「苦」で支配された努力を置く必要は可欠であると思うのだ。その必要も義務もないと思うのである。「いらない」と言っているのではなく、「あってもいいけど、別になくてもいいんじゃん?」のスタンスである。  私は、「苦しい努力」でも「苦」ではない努力もあると知った。自ら望んで「耐えたい」と思う荒波もあるのだ。波が穏やかになった頃に「あの時は耐えた」と気付けるものも、荒波の中で「今猛烈に耐えている」と認識できているものも、努力を努力とも気づいていないものも、形が違えどそれらはすべて努力であって、それが「苦しいけれど不思議と苦ではない」と思えるものならなおさら良いと思うのだ。「苦しいけれど耐え抜いてやりたい」と思えるものなら、なおのなおさら良い。気づくとつい日々の中心に、優先順位の最上位に、「苦」以外の何者も見出せないような努力を置いていたり、また置きそうになっていたりするが、「おっといけない、この道を進むのはここまでにしておこう。自分の道に戻ろう。」とふと気付ければ、どれだけ多くの可能性を潰さずに済むだろうかと思う。その道はせいぜい脇道・寄り道程度にしておいて、中心の一番広くて長くてまっすぐな道は自分のために取っておくのが良いだろう。その道を必死に歩く努力を人生の中心に置くのがきっと良い。寄り道で拾うものの数もまた計り知れないが、人生はきっと想像以上に短い。寄り道が「寄り道」として輝き出すのも、その中心の道をいかにして進むかにかかっていると思うのだ。無駄なものは多いが、無駄なものは一つもない。しかしその無駄に命をすり減らす義務もない。なんとも自分勝手だと、浮かれたやつだと言われてしまえばそれまでなのだが、これは私の人生で、そっちがあなたの人生だよと、私にはあなたの皮膚を勝手に引きちぎる権利もなければ、同様に、あなたにもこの皮膚を勝手に引きちぎる権利はないのだよと、でもさ、仲良くできたら良いね、と思うばかり。あぁ、意識して生きないとあっという間に118歳になっていそうだよ。

 もうすぐで七月が終わる。一日一日、良くも悪くも進んでいき、その順応性に感謝するときもあれば、残酷だと責め立てるときもある。目に見えるものが全てではないけれど、一度目に見えてしまえば、それが真実になってしまうことがある。虚像に惑わされず、何が見えないか、何が見えなくなったかを私は見てゆきたい。せめて見ようとしたい。
 大学のある教授は「詩人とは、ものに言葉を与える人」と言ったが、シンガーソングライターとは「愛を目に見えるものにする人」あたりだろうか。