第6章「予想外のフレーバー」
一番驚いているのは自分である。
前回の投稿から7ヶ月も経ったらしい。通りで、人生は鬼短くて、鬼長いわけだ。空白の7ヶ月を埋めようと書き始めるわけだが、たった7ヶ月、されど7ヶ月、振り返るのも億劫に思えてくる重量感である。たった一日で、たった一冊の本で、人生の価値観が変わることもあるのだから、7ヶ月もあればそりゃ色々変わるぞ、とわけもなく自分を脅しているのである。「ふっとい一本のチュロス」はかわいいもので、今回は「五つのフレーバーが不規則にミックスされたふっとい一本のチュロス」になりそうだ。せめて一本にしたい。
「うちらってもう20年も生きているんだね」友との会話での頻出フレーズである。特に幼稚園、小学校からマブダチであると、昔の姿も知っているもんだから、なおさらその言葉が心にチクリと沁みるのである。20年生きていても、わからないことや知らないこと、解決策が思い浮かばないものが数え切れないほどある。「いやあ、そりゃそう。だってまだ20年しか生きていないんだもの。」これを今読んでくださっているそこのあなたから聞こえてきました。私もそう思います。まだまだこれからで、もうここまで来てしまったのだと。そんな中で、ひとつ解決したことがあるので、これから書きます。
「楽しみながら頑張って」という言葉を周りの人にかけてもらうことがよくある。その事実だけで、いかに私が人に恵まれている人間であるかがわかる。しかし、私はその言葉を聞くたびにとても苦しくなる。私を苦しめようとしてそういった声をかけているわけではないし、むしろ私を応援して支えてくれているからこその言葉であると知っている。しかし私は落ち込む。なぜそういう感情になるのか。「楽しくなきゃダメなのかな、楽しさを感じてなかったら良くないってことなのかな、しんどいことも、テンション上げて笑顔で『たんっのしぃいいいい!』って思いながら乗り越えないとダメなのかな」という考えがあるからだった。「楽しい」という感情は結構難しい存在で、割と曖昧な言葉のように感じる。楽しいってなんだろう。これは楽しいのか?私は今楽しんでいるのか?とグルグル脳みそがかき乱されていた。そこでその悩みを自分の外に出してみた。この相談を聞いてくれた人は、「あなたにとっての『楽しい』はテンション上げて笑顔で『たんっのしぃいいいい!』って思うことなのねぇ。でもそれだけが「楽しい」感情だとは限らない。テンションが上がることだけが楽しいことじゃなくて、いろんな種類の楽しいがあっていいんだよ。『楽しみながら頑張って』って言葉は、『苦しまないで頑張って』にも変換できる。」ほほー、と思った。
解決した今思えば、私にとっての「楽しい」はあまりに身体に馴染みすぎていて、溶け込んでいて見えなかっただけだった。私にとっての普通が、他人にとっての奇妙であって、他人にとっての普通が、私にとっての「初めまして」であった。加えて、私の中の「楽しい」の種類が少なかったと気づいた。その人が言った「苦しまないで頑張って」はどこか聞き覚えがあるなと思ったら、前回の投稿で「自ら望んで耐えたいと思う荒波もある。『苦』以外の何事も見出せないような苦しみは一旦脇道に置いておく。」と自分でそれに通ずることを言っていた。押し寄せる荒波に、私は今、猛烈に興奮しながら「さあ行くぞ!どんどんこい!ほほほほほ!」と耐えることを望んで突き進んでいる。私は既に、楽しみながら頑張ることができていたのだと気づいた。改めて質問されて、それが意識的にやっていたものじゃなかったために、不安になってしまっただけだと気づいた。なんてことなかった。
問題の大小が人によって異なるように、その考えが浅いか深いかは人それぞれであるからなおさら答えが出にくい。我々はいつも答えを探して導き出そうともがくけれど、結局のところ、この世に正解なんてないのだと気づいてしまった。あの人の意見が正解、ではなく、あの人の意見はあくまであの人の意見で、じゃあ私の意見が正解、でもなく、あくまで私の意見は私の意見だということ。一般的に「一般的な意見」になっているものは、あくまで同じ意見がたまたま多かったもので、正解ってわけじゃない。と、なんだか気づいてしまったのだ。その中で、自分の尻は自分で拭けるように、自分の意見を信じて発信するのだと思う。「自分を貫き通しているね」とそんなかっこよすぎる言葉をいただくことがあるが、私はただ、自分の尻は自分で拭きたい派なだけである。正解が存在しない世界だからこそ我々は意見を出し合って交換して「その考えいいね!」「じゃあこうするのはどう?」と自分たちの信じたい答えを導き出す。今回書きたかったのは、「楽しい」って難しいよね、ということではなく、自分一人でどれだけ考えたところでそれは自分の世界の枠の内に収まるもので、そこから抜け出すことはできない。じっくり考えた後は、一度ドアを開けてみて外の世界にいる人たちに話を聞いてみる。そうすると数ヶ月頭を悩ませていたことが、30秒で解決することがある。余計にこんがらがることもあるが、少なからず完全自分本位なことにはならないだろう。誰一人同じ人がいない世界でよかった。この世界でたった一人じゃなくて、道を歩けば誰かとすれ違える世界で、ああ、よかった。
私は昔から、友や家族に相談というものをあまり持ちかけないタイプで、ましてや自分の話なんて、というタイプであるので、なおさら外部の言葉や考えに感銘を受けやすいのかもしれない。もしかしたらとっくにみんなが知っていることを今共有しているかもしれない。いや、よくそんな生き方でここまで来れたなとも思う。逆に言えば、自分なりの考えを導き出すことや、こうして長々と文章を綴ること、音楽に変換して表に出すことが得意なのはそのせいかもしれない。何事にも、いくつもの見方や、利点、欠点が付きまとっていて、面倒臭い。だけど、面白い。でもやっぱり面倒臭い。いやむしろ面白い。そんなごちゃ混ぜな日々を、我々はなんと勇敢に歩んでいることか。
今夜も「今日という日はもう二度と繰り返したくない」と思いながら眠りに落ちるだろう。今日の自分は昨日の自分より、明日の自分は今日の自分より、マシな人間になっている。年を重ねるごとに、毎日を重ねるごとに、あたたかくて深みのある、自分の尻を自分でうまく拭ける人間に、平気な顔で「なんてことない」と言える人間になること、生涯をかけて達成へ近づけるように生きる。確かなことは、今この瞬間に自分が存在している、ということだけである。次の瞬間はわからないから、やっぱり私は、今を思い切り生きる。
これにて、見事、五つ、いや、七つのフレーバーが不規則にミックスされたふっといチュロスの完成である。赤裸々に語ると予想外のフレーバーが介入してくると学んだ。一本に収まったことにしてもろて、どうぞ可能な範囲で、美味しく召し上がれ。